第69号 (PDF)




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Title: 第69号

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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!



もぐら通信   




Mole Communication Monthly Magazine

www.abekobosplace.blogspot.jp

2018年6月1日 第69号 初版
迷う
あな

あな
事の

ただ

ない

けの

たへ

迷路

番地

:

を通

に届


って

きま

そうでなく、ぼくの云うのは単に方法として云っておるんですよ。ライプニッツの普
通数学や集合論の場合のように現象学的な認識方法なんですよ。物を把える把え方で
すね。(全集第2巻、63ページ下段)



『二十代座談会 世紀の課題について』

安部公房の広場 | s.karma@molecom.org | www.abekobosplace.blogspot.jp

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2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 『遊弋』十三句:九堂夜想…page 7
3 『カンガルー・ノート』論(4):(17)笛の音:岩田英哉…page 8
4 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(14)∼安部公房をより深く理解するた
めに∼:岩田英哉…page 36

5 Mole Hole Letter(4):デカルト…page 42
6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 50
7 編集後記…page 53
8 次号予告…page 53
・本誌の主な献呈送付先…page54
・本誌の収蔵機関…page 54
・編集方針…page 54
・前号の訂正箇所…page 54

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板
1。

今月の安部公房ツイート BEST 10
ole

en M
Gold
e
Priz

M
r
ve
l
i
S
ize
Pr

ole

どらちー @_dorachi_ 9月2日
安部公房は青空文庫収録されるまであと26年もあるけどな!

しめじ
安部公房とレーモン・クノーと藤枝静男とボリス・ヴィアンと
冨士原清一とパラージャーノフと、酒と本があれば大抵大丈
夫。 G街で日曜日働いていました…
なかじま @Soramitako 9月23日
以前の話で恐縮ですが
デアゴからデロリアンが発売された当時、お客様から
「デンドロカカリヤください」
と言われたことがあります。それは安部公房かと。

2。今月のCHIANTI
shiiilky @takaserui 9月5日
六本木で憧れのキャンティの
ランチコース食べて、
お母さんを中野案内して
じゅりに会わせて帰った(́º º`)
ここに三島由紀夫や安部公房が…!
いいお店すぎて縮こまった( *́•ω•`*)

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3

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3。今月の安部公房とAI
Sofvot @sofvot 14分
14分前
安部公房はAIがお嫌い?:日経ビジネスオンライン 早稲田大学・鳥羽耕史教授
に聞く
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/091200162/092000003/
4。今月の馬面
ばれっと @lokantayagitti 9月11日
馬面といえばロジャー・ウォーターズ。
「ぼくは以前から髭を剃った馬みたいな
ウォーターズのファンだった」(安部公房
「カンガルー・ノート」)
誕生日おめでとうございました。

5。今月の箱男
@tatata_momo 9月4日
安部公房の「箱男」のファンは結構いて、自ら箱男になる人もそこそこいるので、
こういう写真がたくさんある
6。今月の安部公房論
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 9月13日
書物の「帰属」を変える(3)安部公房『箱男』と虚構の移動性 http://ci.nii.ac.jp/
naid/40020255668 …
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 9月10日
狂気の躍動--安部公房『密会』 (特集 〈精神病院〉の文学) http://ci.nii.ac.jp/
naid/40019027292 …
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 9月6日
鳴り響き続ける「ぼく」 : 安部公房『カンガルー・ノート』試論 http://
ci.nii.ac.jp/naid/120005851876 …

4

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詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 9月5日
物質と思考の運動 : 安部公房の「砂の女」におけるシュルレアリスム的技法とそ
の変容(日本語日本文学特集) http://ci.nii.ac.jp/naid/40006811906 …
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 9月4日
安部公房『砂の女』研究--砂の世界への解放 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40001291768 …
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 9月3日
メビウスの輪--安部公房「砂の女」 (特集 脇役たちの日本近代文学) -- (脇役28選)
http://ci.nii.ac.jp/naid/40005656921 …
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 9月3日
安部公房『第四間氷期』--水のなかの革命 http://ci.nii.ac.jp/naid/
120005481595 …
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 9月2日
予言=権力 : 安部公房『第四間氷期』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40019842612 …
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 8月31日
地図と契約--安部公房『燃えつきた地図』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40016907083 …
7。今月の人魚伝CD
厩戸モナ @monako_oao_ 9月8日
【文学】人魚伝 安部公房【ドラマCD】 http://nico.ms/sm7448289
これ一回聞いてみ、私が声優さん好きなだけかもしれんけど引き込まれたから
【文学】人魚伝 安部公房【ドラマCD】
ちょっとグロいかも。ドラマCDというより、朗読に近いです。ほぼ朗読です。図
書館でこのシリーズを借り...
nicovideo.jp
8。今年12月の上演「未必の故意」
寺川昌宏 @terany0819 9月7日
遅くなりましたが、劇団風斜公演「日本漂流記」(9/1∼3)、無事に終演しまし
た!昨年の公演中止を乗り越えての舞台は、なかなかに大変でしたが、終わって
しまえばあっという間で思い出深いものになりました。
次は12月15∼17日、安部公房作「未必の故意」です!

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6

9。今月の『友達』
2017年(平成29年)9月14日の北海道新聞に小説家久間十義氏に
よる『友達』と北海道と題した記事が掲載されました。

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『遊弋』十三句

九堂夜想














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『カンガルー・ノート』論
    (4)
岩田英哉

        目次
0。はじめに
1。結論:この小説には何が書いてあるのか
1。1 様式について
1。2 内容について
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容
2。『カンガルー・ノート』の呪文論
2。1 呪文とtopologyと変形の関係

青字は前回までに
て論じ終つたもの、
赤字は今回論ずるもの、
黒字はこれからのもの

3。『カンガルー・ノート』の記号論
3。1 章別・記号分類
3。2 記号別・記号分類
4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第
5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》

(3)袋
(4)《かいわれ大根》

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(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
(12)人面スプリンクラー
(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(21)列車
(22)呪文
(23)尻尾
(24)3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)
5。1。5 章間形象連続性分類
5。1。6 存在の祭りと次の存在への立て札
5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
5。2。1 存在の中の存在の中の存在の怪奇小説『大黒屋爆破事件』
5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原:
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘
5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異

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 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫
7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」
*****
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(17)笛の音
これは『もぐら感覚17:笛』(もぐら通信第15号)で詳述しましたので、これをご覧く
ださい。安部公房の全体の中での笛といふ形象の持つ意味が、詩も小説も含めて、解ります。
一般式:存在[(始め、終り)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人、窓]
この式に戻って、各章との関係を考へてみると、次のやうになります。シャーマン安部公房の
秘儀の式次第に従つて各章に割り当てた存在のプロセス形式のそれぞれで、笛の音の鳴る章
は、どの章であるかを見てみませう。笛の音または相当語句は、沈黙の音色とそもそも甲高
い音のない場合も含めて、赤字にして強調しました。
(1)差異を設ける:第1章:かいわれ大根:(「トンボ眼鏡の看護婦」):呪文:存在
[(始め、終り)、(存在の形象、(鳴らないベルの音、巡回員の呼び子)、呪文類)、案
内人、窓]
(2)呪文を唱える:第2章:緑面の詩人:(「トンボ眼鏡の看護婦」「垂れ眼の少女」):
呪文:存在[(始め、終り)、(存在の形象、(警笛、チベットの大笛)、呪文類)、案内
人、窓]
(3)存在を招来する:
  ①第3章:火炎河原:(「トンボ眼鏡の看護婦」「垂れ眼の少女」):御詠歌、呪文:
存在[(始め、終り)、(存在の形象、ガイドの娘の笛、呪文類)、案内人、窓]
  ②第4章:ドラキュラの娘:(「トンボ眼鏡の看護婦」「垂れ眼の少女」):呪文類な
し:存在[(始め、終り)、(存在の形象、甲高い音なし、呪文類)、案内人、窓]
(4)存在への立て札を立てる:(「トンボ眼鏡の看護婦」「垂れ眼の少女」):第5章:
新交通体系の提唱:御詠歌、古謡:存存在[(始め、終り)、(存在の形象、警笛、呪文
類)、案内人、窓]
(5)存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:(「トンボ眼鏡の看護婦」「垂れ眼
の少女」):呪文:鎮魂歌:存在[(始め、終り)、(存在の形象、(草笛、「喉を笛のよ
うに吹く」其の音)、呪文類)、案内人、窓]

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(6)次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌」:(「垂れ眼の少女」):
詩、呪文:存在[(始め、終り)、(存在の形象、(警笛、「笛のやうな歌」)、呪文
類)、案内人、窓]
第4章:ドラキュラの娘を見ると、呪文類のないところでは、甲高い音が響かないので、呪
文類と甲高い音は一式であることがわかります。これは、「(16)風の音」で考察した風
の吹く契機と呪文類の関係についての次の一連の連鎖の中での結論とも一致してゐます。
座標の喪失→(何かの開始を告げる)甲高い音→呪文類を唱へる→自己喪失(意識・無意識
の境界が曖昧になる)→存在の出現
といふ順序なのでした。
さうして見ると、今度は『もぐら感覚17:笛』(もぐら通信第15号)で挙げた笛の例を
見てみて、この笛の後に呪文類が唱へられてゐないかどうかをみてみませう。以下、必要なと
ころをそのまま引用してお伝へします。
「1。白樺と笛
『無名詩集』に「孤独より」と題する詩があり、11篇の詩から構成されていますが、その
「其の四」に次の詩があります(全集第1巻、231ページ)。1947年、安部公房、2
3歳。
「白樺の枝二つ三つ
 手折りて童(わらべ)
 笛を作りぬ
 遥かなる想ひの如く
 しのびよる夕と風に
 その心 重かりき

 その故か その心
 あまた憧れの音(ね)にみちたれど
 風よりもなほ微かにて」
ここにあるのは、白樺の枝を手折って笛を作るということが歌われています。しかし、その笛
を吹くということは歌われておりません。その笛の吹かれざる音は、この話者の心の内に憧
れとして微かに鳴っていると歌われています。」
呪文類は、この詩の中では「其の四」の前の「其の一」と「其の二」にそれぞれ次のやうに

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唱へられてゐます。
「其の一」:
①第一連:「その為に君達は去って行くのだらうか/その為に各々異なつた道を選ぶのだらう
か/その為に沈黙が尊ばれるのだらうか」
②第二連:「その為に君達は集ひよるのだらうか/その為に各々神への道を歌ふのだらうか/そ
の為に微笑みが尊ばれるのだらうか」
③第三連:「そして想ふだらう 悦びは春の様だ/悲しみは秋の様だと」
「其の二」:
①第二連:「そよかぜにゆれる枝に連なる/あまた悲しみの表情を解きながら」
②最後の連:「そよかぜにゆれる枝に連なる/あまた悲しみの表情を解きながら」
この「其の四」では既に、笛の音色と風の音とは一緒になつて歌はれてゐます。その時間は夕
べであり、『赤い繭』の主人公がトボトボと自分の家を尋ねてtopologicalな(この世には存
在しない)道を歩く、昼と夜の隙間の時間です。ここでは、笛の音色は風の音よりも尚微か
であるといはれてゐる。
さて、「この詩の白樺とはどのような形象(イメージ)なのでしょうか。それを見てみましょ
う。
『没我の地平』に「謎」と題した詩があります(全集第1巻、179−180ページ)。1
946年、安部公房、22歳です。
「自然に四季がある事を
 僕等はどの手で受け取ろう
 果たしてそれが自然のものか
 それとも心の移ろひに
 自然の影がゆらいだものか

 ほつそりとした白樺の秘密
 どこかの森で湖が
 僕に歌つて聞かせてくれた
 雪と命の不思議な謎を
 あの白樺の物語り
 か弱い永遠(とは)のとらわれの身を
 悦びの故僕等の内に
 読み取る事が許されようか

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 さすらつて行く此の身の上に
 置き代へても良いものか
 おゝ例へ
 それを僕等が耐えたとしても
 郷愁に乱れた心は何処へ行く
 心の四季はあの白樺を
 枯らさぬ事が出来るかどうか
 …………… 」
これを読むと白樺という木には秘密があり、「白樺の秘密」とは、四季の移ろいという時間
のありかた、即ち自然の循環について、この一人称(僕)が「どこかの森」の中で、「湖が/
僕に歌つて聞かせてくれた」、そのように湖によって歌われた、即ち湖が詩としてこの詩の一
人称に伝えられた、白樺についての秘密だということがわかります。
そして、この白樺は「ほっそりとした白樺」です。この形象(イメージ)は、『詩と詩人(意
識と無意識)』の芦笛に通じています(全集第1巻、107ページ。1944年、安部公房、
20歳)。
さて、この白樺は、「か弱い永遠(とは)のとらはれの身」とあるので、どうやら囚人のよ
うに囚われの身となっているようです。このことを巡る物語が、「あの白樺の物語」なのでしょ
う。そうして、それは、「雪と命の不思議な謎」の物語であるのです。
この白樺の身の上を、わたしたちのこころの内に、同様に読み取ろうとすると、それは、「悦
びの故」ではそうすることは適わないとあるので、そうであれば、反対に悲しみを以て、読
み取ることになるでしょう。それは、やはり悲しみの感情を伴う物語です。
何故そうかと言えば、それは、この地上にある「此の身の上」が「さすらつて行く」身の上
であるからであり、そのように移り変わって行く人間にとっては、白樺の物語は、手の届かな
い、やはり悲しみの感情を以て理解をする以外にはない物語だからだということになります。

何故ならば、白樺の物語とは、自然の四季の中に生きる人間とは異なり、永遠に閉じ込めら
れて、変わることのない、不死のこの樹木の物語だからです。
それ故に、この詩の第1連は、そのような白樺の物語に言及する前段として、
「自然に四季がある事を」

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と歌い始めるのです。」
このやうに読んで参りますと、安部公房の終生の作品は「白樺の物語」であり、その物語は
「永遠に閉じ込められて、変わることのない、不死のこの樹木の物語」、「白樺の物語は、
手の届かない、やはり悲しみの感情を以て理解をする以外にはない物語」であるといふ事に
なります。
これはお気づきでせうが、この「白樺の物語」は、安部公房の小説観と世界認識そのもので
す。以下『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか』(もぐら通信第58号)より引用してお
伝へします。
「IV 安部公房の小説観と世界認識
この『キンドル氏とねこ』のメモを総覧しますと、存在になる「アクマ氏」に対するカルマ
氏とコモン氏に対するに更に、複数たり得るキンドル氏を自己証明書の交付資格を有する第
三者として配し、「夜のアクマ」にメタ嬢を恋愛関係の中にある女性として配してゐることが
判ります。そして、この物語の主人公は、やはり「複数のキンドル氏」なのです。何故ならば、
メモの第一行が、次のやうであるからです。
「複数のキンドル氏→だからこれはあるキンドル氏の物語と言ってもよい。」
同じ文章が、私たちは『人魚伝』といふ、最後には主人公が「沢山のぼくの類似品」になつ
てしまつてゐる小説の冒頭にあることを知つてをります。
「 ぼくがいつも奇妙に思うのは、世の中にはこれだけ沢山の小説が書かれ、また読まれた
りしているのに、誰一人、生活が筋のある物語に変わってしまうことの不幸に、気がつかな
いらしいということだ。(略)
 物語の主人公になるといふことは、鏡にうつった自分のなかに、閉じこめられてしまうこ
とである。向う側にあるのは、薄っぺらな一枚の水銀の膜にしかすぎない。未来はおろか、
現在さえも消え失せて、残されているのは、物語という檻の中を、熊のように往ったり来たり
することだけである。(略)息をひそめた囁きや、しのび足が求めているのは、むしろ物語
から人生をとりもどすための処方箋……いつになったら、この刑期を満了できるのかの、はっ
きりした見とおしだというのに。」(全集第16巻、77ページ)
これでわかる事は、安部公房の物語観ですし、それは其のまま小説観です。
(1)物語は主人公の閉籠められてゐる閉鎖空間である。何故ならば、
(2)この空間は合わせ鏡の空間であるからだ。
(3)この空間には時間は存在しない。従ひ、
(4)主人公はただ「物語という檻の中を、熊のように往ったり来たりすることだけであ

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る。」しかし、
(5)小説は本来「筋のある物語」ではない。
(6)日常の時間に生きる人間は「筋のある物語」を求める不幸の自覚がない。
(7)「自分の人生をとりもどすための処方箋」として、安部公房の「筋のない物語」として
小説はあるのだ。
この(7)にある此の目的のための小説の形式(form)と様式(style)が、「シャーマン安
部公房の秘儀の式次第」です。それ故に、いつも安部公房は存在へのtopologicalな「終わり
し道の標べに」立て札の標識を立てて、そこに存在の方向を示して、この世での主人公の死
とともに、読者を次の次元へと案内して、小説は終るのです。
この安部公房の小説観のついでに、同じ小説観を述べてゐる作品で、『人間そっくり』の元
の短編『使者』にある主人公奈良順平が火星人だと自称する男と会話をしながら心の中で思
ふ論理を見てみませう。
「……気違いだとすると、こいつは相当によく出来た気違いだよ。だが待てよ、もし本物の
気違いなら、この話はそのまま使ってもかまわないだろうな。これが使えるとなると、今日
の馬鹿気た手違いも、まんざらではなかったということになる。さっそく今日の講演に拝借
してやるか……うん、ちょっとした風刺もあるし、なかなか悪くなさそうだぞ……題は「偽
火星人」……通俗的すぎるかな?「箱の中の論理」というのはどうだろう?いや、ちょっと
高級すぎるよ。なにかその中間くらいのを考えてみることにしよう……」(『使者』全集第
9巻、306ページ下段∼307ページ上段)(傍線筆者)
この同じ「箱の中の論理」、即ち後年の『箱男』の論理をtopoloty(位相幾何学)との関係で、
本物と偽物、この論考でいふ真獣類と有袋類の関係を、人間と人間そつくりの関係の問題と
して解を種明かしとして説明してゐる箇所が、前者、即ち『人間そっくり』に書かれてゐます。
即ち『箱男』はtopologyで解読することができるのです。即ち、このことは、『箱男』のみ
ならず、全ての安部公房の作品は、接続と変形といふ視点から解読することができるといふこ
とを意味してゐます。[註11]
[註11]
Topologyと存在概念については、『存在とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼』(もぐら通信第4
1号)をご覧ください。

『人間そっくり』より以下に引用する奈良純平といふ主人公と火星人との会話を読むと解り
ますが、主人公の思つた「箱の中の論理」は、「そつくり」といふ事の内にtopolotyと呪文
と変形(の方法論と方法)を含んでをり、あるいは逆にこれらの三つの構成要素に基礎を置

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いて、全ての作品の持つ「箱男」の論理は成立してゐるのです。
十代の安部公房が考へ抜いて概念化した四つの用語、即ち部屋、窓、反照、自己証認からな
る安部公房の宇宙を思ひ出して下さい。部屋は存在の部屋、窓はtopologicalな変形と脱出の
出入り口、反照は再帰的な複数の自己の存在する合はせ鏡、自己証認は次元展開、即ち「転
身」の果てにみることによつて成り立つ第三の客観によつて存在が証明される「僕の中の
「僕」」。これらの関係については『詩と詩人(意識と無意識)』に詳述されてゐますので、
ご一読をお薦めします。」
さうして、笛は「白樺の物語」、即ち「この世の音を鳴らす笛ではなく、永遠の中に閉じ込
められていつまでも変わらぬ姿でいる白樺の「雪と命の不思議な謎」を歌い出す笛」なのです。
「さて、そうしてみると、『天使』の末尾に出て来る白樺の小枝を手折って製作した笛は、こ
の世の音を鳴らす笛ではなく、永遠の中に閉じ込められていつまでも変わらぬ姿でいる白樺
の「雪と命の不思議な謎」を歌い出す笛だということになります。『天使』の末尾に措かれ
た詩は、次のようになっています。1936年、安部公房、22歳。
「白樺の二つ三つ
 手折りて童 笛を作りぬ
 遥かなる想いに答え
 時に咲く紅の花 いざ咲けと
 唇は笛を求めど
 風よりも尚おひそかにて
 笛は鳴らざる……」
上に引いた『謎』で歌われる雪は冬という季節を示し、命とは春に訪れる生命を示している
でしょう。従い、この白樺の物語は、死と生の物語だと言い換えることができます。
白樺の物語は、永遠の中に閉じ込められた生と死の物語だということが、わかりました。
[註]
こうしてみると、胎生の中ので生ということが思い出されます。この笛と同じ発想が、『名も
なき夜のために』にあります。次の個所です(全集第1巻、553ページ下段)
「どんな傷からでも、生と死を含めた全存在の傷が成長するのに気づくはずだ。これが貧し
い僕にはせい一杯の贈物であるらしい。
 そしてもしそれが役立つものだとすれば、負数の時間を歩むことは丁度人間が胎児のあい
だに生物の全歴史を繰返すように、すべての人に繰返される物への復帰の道だと考えてみたら
どうだろう。」

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してみると、後述する『詩と詩人(意識と無意識)』の芦笛(全集第1巻、107ページ下
段)も同じ形象(イメージ)であると断定してもよいでしょう。
また、『没我の地平』に『光と影』という詩があります(全集第1巻、187ページ)。こ
のページにある次の詩句も、上の解釈によって、その意味が明らかになります。その最後の連
を引きます。1946年、安部公房、22歳。
「しかし見詰めよ生身と共に
 牧場にこもる静寂を
 例へば沈む白樺の森
 そこに近付く移ふ生身が
 盃たるを耐える為には
 おゝ姿見よ お前自身は
 白樺であつてはならぬのだ
 大地の暗さを微笑む事を
 牧場に消してはならぬのだ。
 「例えば沈む白樺の森」。これは、湖に沈んでいる白樺という形象です。ということは、白
樺は、死んでおり、死の世界にあるということになります。
そうしてみると、
「そこに近付く移ふ生身が
 盃たるを耐える為には
 おお姿見よお前自身は
 白樺であつてはならないのだ」
と歌う論理がよく解ります。
姿見とは、この詩のその前の連で歌われている「無名の吾」 [註]のことの、言い換えであ
り、その「無名の吾」が姿見となり、一個の盃となって、この世を生きるということを歌って
いることが解ります。
[註]
「無名の吾」という言葉のある前の連は、次のようなものです。
「おゝ姿見よ 今一度
 あの放牧を歌う為
 無名の吾をうつし出せ」

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そうしてみれば、『謎』という詩の最後に今一度戻って考えると、
「おお例え
それを僕らが耐えたとしても
郷愁に乱れた心は何処へ行く
心の四季はあの白樺を
枯らさぬ事ができるかどうか
……….」
とある詩行の意味は、移ろい生けるものとしてあるこの「僕らが」この白樺の物語、即ち死
としてあるが如くの、永遠の中の不死のその謎に耐えて、生ける者として、その白樺の物語を
こころの内に枯らさずに生きて行けるかどうかという意味になるでしょう。それが、この世
を生きることだと、安部公房は歌っているのです。
こうして、もう一度『天使』の終りの笛の音の聞こえるところに戻って、今度はその散文の個
所を見てみましょう。
「何故か心の奥底、と言うよりは、私の想出そのものを其処で繰返えしている様な魂の波を
激しく攪乱した。丁度静かな池に石を投げて出来た、次々に広がって行く波紋の中心を見詰
めている様な、気分だった。次第に現れて来て、明瞭に其の存在を感じはするのだが、どうし
ても正確には捉えられぬと言う様な。」
「心の奥底」とあるのは、確かに湖の底に沈んだ白樺に通じる譬喩(ひゆ)です。これが安
部公房の詩の世界の連想であることは、上の散文の個所の引用で、湖ではありませんが、池
という言葉を使っていることから、その関係を理解することができます。池や湖の底に沈んで
行く石と、その石の生じる水の表面に起きる波紋とその波紋の中心(つまり、石が水に落ち
た場所)という関係です。
2。枝を手折る
さて、ここで少し視点を変えて、枝を折る、木の枝を手折るという行為の意味について見てま
しょう。
『(霊媒の話より)題未定』に、既にこのモチーフが出て参ります(全集第1巻、26ペー
ジ上段。1943年、安部公房、19歳)。主人公のパー公は、ある村を曲馬団の興業で訪
れて、舞台で自分の演ずる間にふと観客である二人の子どもに目が行き、そこで思ったこと
が、次のように語られています。パー公は親の無い、サーカス団に拾われた子どもとして設定
されています。

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「両親に連れられた楽しげな二人の子供達だった。失われた人々のかすかな面影が再びそこ
に現れた様な気がしたのだ。震える様な不安と憔そうと、消えて行く様な悲痛と詫びしさが、
失われ掛けた春の光を、手折られた小枝の若芽を、もう一度湧出る激しい生命の叫びを呼び
起こしたのだ。無言の、そして未だ知られざる争闘が、過去の世界と現実の世界とを結び着
ける為に、圧し包まれて居た厚手のマントを押し開いて、新しい魂の舞台へと、「狂」の舞踏
を始める為に跳り出したのだ。」
「手折られた小枝の若芽を」とある、このこような小枝は、「失われ掛けた春の光」であり、
「もう一度湧出る激しい生命の叫び」、即ち、既に見た様に不死の永遠の生命そのものを意
味していることがわかります。
即ち、枝を折るという行為は、失いかけた生命を取戻すという行為を意味しているというこ
とになります。そして、小枝を折るということ、折られた小枝の若芽ということは、失われた
ものを恢復する生命の感情を呼び起こすものとしてあるということになります。
これが、白樺の枝を手折って笛をつくるということの意味ではないでしょうか。
このように考えて来ると、『天使』の末尾に措かれた詩の意味は、
「白樺の二つ三つ
 手折りて童 笛を作りぬ
 遥かなる想いに答え
 時に咲く紅の花 いざ咲けと
 唇は笛を求めど
 風よりも尚おひそかにて
 笛は鳴らざる……」
と読み直すと、生命の恢復を願って、主人公が白樺の小枝を手折るわけですが、その笛は鳴
らない、即ち、主人公は死者のままだという解釈をすることができます。或いは、狂気の状
態から脱することのできない主人公の状態を表していると解釈することもできるでしょう。
謎の力を持つ白樺の小枝でそのような威力のある笛を製作したのだが、笛は鳴らなかった。
この詩では、枝を折る行為者は、笛を吹いても直かに鳴らなかったというよりも、「笛を求
めど」とあるように安部公房は歌っておりますから、とすれば、この笛には何か、ひとりで
に鳴る自分の意志があるかの如くです。勿論、この「笛を求めど」を雅語と見て、直かに笛
を吹くことをそう表し、一層笛の音の鳴らざる状態との乖離を表したと解釈することも可能
です。」
『カンガルー・ノート』の、

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(1)差異を設ける:第1章:かいわれ大根:(「トンボ眼鏡の看護婦」):呪文:存在
[(始め、終り)、(存在の形象、(鳴らないベルの音、巡回員の呼び子)、呪文類)、案
内人、窓]
とある此の「鳴らないベルの音」を笛の音と同じ甲高い音だと解すると、「生命の恢復を
願って、主人公が白樺の小枝を手折るわけですが、その笛は鳴らない、即ち、主人公は死者
のままだという解釈をすることができます。或いは、狂気の状態から脱することのできない
主人公の状態を表していると解釈することもできるでしょう」といふ意味の、鳴らぬベルの音
といふ事になります。そして『カンガルー・ノート』でも同じく、主人公は「生命の恢復を願っ
て、主人公が白樺の小枝を手折るわけですが」、これが白樺の小枝ではなく、かいわれ大根
の一本といふか一毛といふわけです。それが次の一行です。
「ためしに一本引き抜いてみた。抜けるかわりに、ちぎれ、汁が分泌してきた。」
これがあの「生命の恢復を願って、主人公が白樺の小枝を手折る」といふ小枝の変形した姿
なのです。さうしてそのあとでは、ベルを押しても鳴らず、「主人公は死者のままだという解
釈をすることができます。或いは、狂気の状態から脱することのできない主人公の状態」を
表してゐるといふ訳です。ある朝目覚めてみれば「いつの間にか」(超越論的に)死者になつ
てゐるのであれば、自走ベッドでの地獄巡りも自然の成り行きで、できようといふものです。
実際に『天使』の末尾に措かれた詩の前には、呪文が置かれてゐます。それは次の呪文です。
主人公が「馬の化物だった事を見抜いた」天使と別れたあとに、
①「……(略)私はぴょんぴょんはね上って逃げて行く偽天使の後ろ姿を(略)」(『(霊
媒の話より)題未定』109ページ)
②「さてぶらぶら出掛けるとしようと思ったが(略)」(同書、110ページ)
③「どちらかと言えばとぼとぼと歩いた事を(略)」(同書、110ページ)
そして、『デンドロカカリヤ』のコモン君と同様に、座標を失つて、「突然体がふわっと浮い
て、空の中に落ちて行くらし買った。びっくりしてうつぶき、そばに在った並木にしっかりと
しがみついて、しばらく息もつけずにじっとしていた。何か酔った様な気持で、しきりと嘔吐
感をもよおすし、」直ぐに続けて、
④「又しても激しい地球の自転の音が耳についてたまらなかった。」(同書、110ペー
ジ)
⑤「丁度眉間の所で何か弾力の在る不快なものが、しつこく伸びたり縮んだりしてうるさかっ
た。」(同書、110ページ)

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「さて、『題未定(霊媒の話より)』では、ここから、「未だ知られざる争闘が、過去の世
界と現実の世界とを結び着ける為に、圧し包まれて居た厚手のマントを押し開いて、新しい魂
の舞台へと、「狂」の舞踏が始」まります。
前回の『もぐら感覚16:贋の父親』で明確になった安部公房の贋と閉鎖空間の論理によれ
ば、狂気ということから、ここから先主人公の意識には閉鎖空間からの脱出が意図される筈
です。
『天使』では、確かにそのような意図(しかし無意識の)を以て、(脱出の通路である)窓
辺へと近づく筋立てとなっております。(安部公房の概念化した窓については、この主題を詳
細に論じた『もぐら感覚5:窓』をご覧下さい。)『(霊媒の話より)題未定』では、主人
公のパー公はは、贋の老婆の役割を演じなければならないその家族という閉鎖空間を逃れて、
失踪する結末となっています。」
さう、『カンガルー・ノート』でも確かに「ここから先主人公の意識には閉鎖空間からの脱
出が意図され」てゐます。贋の父親の顔になる人面スプリンクラーは、外部への通路でありま
した。これが、やはり、笛の音から云つても、安部公房の顔に関する認識[註1]から云つて
も、外部への脱出の試みの一環として出てくる人面スプリンクラーであり、最後に主人公は「大
型冷蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱」の窓に近寄つて、その窓辺から外部を眺めて脱出
を図り、「垂れ目の少女」Bの呪文の力を借りて、脱出に成功する事になるのです。
[註1]
安部公房の顔に関する認識については『横顔に満ちた人――安部公房』(もぐら通信第64号)をお読みくださ
い。詳しく論じました。

さて、次は、『牧神の笛』の笛の音色です。
「3。牧神の笛
安部公房が詩人から小説家になろうとしたときに書いた作品に、『牧神の笛』という、安部
公房の芸術家人生にとって重要なエッセイがあります(全集第2巻、199ページ。1950
年、安部公房、26歳)。
これは、大東亜戦争の戦時中にリルケを読み耽り、「時間の停止」した、「いや停止という
よりも、遮断といったほうが、もっと正確かもしれない」「リルケ式冬眠の穴」(全集第2
1巻、437ページ)に棲んでいた安部公房が、リルケというドイツ語の詩人とその詩の世
界をどのように考えたら、その戦後の、安部公房の言葉によれば「時間が、流れ、たしかに
存在していることを」(全集第21巻、437ページ)知った時代に、小説家としての自分が

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生まれるのか、小説家としての自分は、詩人としての自分とどこがどう違うべきなのか、更に
またその両者を統一して考えるにはどのように考えるべきなのかを考察した作品です。
そうして、この作品のキーワードが、題名にもなっている「牧神の笛」なのです。
このエッセイを読みますと、リルケという詩人の人間としての我がままな側面、冷酷で酷薄
で非人間的な側面に、安部公房は気付いたことがわかります。それも、時間の流れる日常が
あり、また人々と交流をして、時間の中に生きている人間にとっては重要な「約束の意味」、
約束を守ることの意味をほとんど初めて考えなければならなかった若い安部公房の姿が、こ
こにあります。リルケの孤独から生まれた純粋空間は、社会とは無縁で、従い、この空間の中
では、約束など顧慮することがありません。
安部公房はそのようなリルケを、時間のなかで生身の人間として生き始めた時に知って、憤り、
リルケに憎悪の感情を持っていることを隠さずに書いています。このエッセイは、この感情を
克服するために書かれたといってもよいのです。
従い、ここでは、リルケは「フォーンのようにわがままなねがいばかりを生きていたのだと
考えられはしまいか。」と書かれています。リルケを牧神(フォーン)に譬(たと)えていま
す。
即ち、リルケのように棲む世界が非日常の、時間を捨象した静謐な純粋空間に生きる牧神
(フォーン)の吹く笛が、牧神の笛であるというのです。
そして、安部公房は、リルケから学んだ「小さいもの」を歌うこと、即ち詩と、「小ささ」
を考えること、即ち散文(小説)との区別をして、詩人から小説家へと脱皮しようと考えるの
です。何故ならば、安部公房によれば、小ささとは、日常において捉えられるものであり、小
さいものは、非日常の世界のものだからです。従い、小ささを知っている自分には愛があるが、
それを知らないリルケには愛はないと断定するのです。
このように、リルケの言葉の世界は、そもそもが日常の世界のものではないのだから、それ
は「リルケを乗り越えられるべきものなどということはまるで無意味なのだ」と結論します。
こうして、リルケを生かしたまま、否定することなく、また超えることもなく、10代の自分
のこころを生かしたまま、安部公房は小説家に変身し、変容するのです。
さて、ここで、安部公房は、やはりリルケの『マルテの手記』に書かれている外部と内部の交
換に言及せずにはいられません。それは、次のように書かれています。
「もしかするとリルケの世界では内部と外部とがすっかりいれちがいになっていたのかもしれ
ぬ。たとえば、内容にとりかこまれて、内がわに外気を入れるガラス玉の気泡のように。そこ

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では恐らく内部が客体となり、ぼくらは内部をもの(原文傍点)として共有し、外部を主体
にゆずってしまう。あるいはその反対のように……、ぼくにはもうそんな具合にしか考えられ
ないのだ。人間的なものはすべて裏がえった顔であり、それに合わせて自己を裏がえそうとす
る試みだけが詩ではないだろうか。」(全集第2巻、201ページ下段)
この思考は、詩についての言及であるにせよ、やはり、詩を書く事と散文を書く事が同じ原
理、外部と内部の交換という原理によって書かれていることを示しています。詩文の裏返しが
散文であり、散文の裏返しが詩文であるのでしょうか。安部公房は、次の言葉でこのエッセ
イを締めくくっています。
「結局、ぼくのいきどおりも、その凍りはて裏がえったフォーンの快活さにたいしてであり、
それは同時に、ほかでもないぼく自身の足どり、ぼくの血を吸おうと待ちかまえるぼく(原文
傍点)自身へのいきどおりにほかならなかったのではなかろうか。ぼくもまた、フォーンの
笛を吹かねばならぬのだ。」(全集第2巻、202ページ上段から下段)
これは、安部公房が自分自身を、リルケをフォーンに譬えたように、やはりフォーンに譬えて、
自分自身の外部と内部を交換し、また主体と客体を交換する、この創作原理に基礎を措いた、
結局(リルケのように)人間ではない人非人の自分を充分に自覚して、牧神の笛を吹くこと
の覚悟を示した文章です。
また重要なことは、「ぼくの血を吸おうと待ちかまえるぼく(原文傍点)自身」とあるよう
に、安部公房が自己参照的な、再帰的(recursive)な思考と感性の人間だということです。
安部公房はいつも自分自身を参照します。上に引いた『没我の地平』の『光と影』では、「無
名の吾」を姿見(鏡)に比しておりました。安部公房は、このように再帰的に自己を参照す
るのです。これは、安部公房のすべての主人公に共通の意識、思考、そして感性です。
さて、そして、人非人の自分とは、勿論、リルケの純粋空間に憧れ、それを創造しようとする
詩人としてもある安部公房自身のことに他なりません。
そのような牧神が、上の1と2で見て来た笛を吹くのです。
これが、牧神の笛の意味です。
このように理解することのできる牧神の笛は、『名もなき夜のために』に出て来ます(全集
第1巻、512ページ)。
ここでは、手について、手が意志ある生き物のごとくに述べられていて、その次に次の様な文
章が続きます。(安部公房の手については、『もぐら感覚6:手』をご覧下さい。)

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主人公の手に関する考察に手が気付いて、手は「まるで人ごとのように業とらしく痙攣した。
僕には、その、自分が何かに支えられていたのに初めて気づいたのだとでも言わんばかりの、
そしてそれを確かめなければとでも言わんばかりの仕草が、如何にも主人の中の人間を認め
たドレイの侮蔑のように思われて悲しかった。」とあり、そして、次の一行が来ます。
「自分自身の上にしか落ちて行けない地球のように、石と粘土の廃墟をさまようパンの神の
ような哀しさだった。結局僕はなにも書けなかった。僕にはまだ現在を充分手元に引きとめ
る力がないのだろうか。」
パンの神とはフォーン、牧神のことです。このパンの神は、廃墟を彷徨う、荒れ果てた土地を
行く、孤独の神であり、その分人非人であり、この世の人ではなく、「自分自身の上にしか
落ちて行けない地球のように」再帰的に自己参照的です。
この牧神の笛は、『詩と詩人(意識と無意識)』という論文の中にも「真理とは曠野に流れ
る芦笛の音」であるとして、芦の笛として出来ます(全集第1巻、107ページ下段)。19
44年、安部公房、20歳。
ここでも、この笛の音によって知られる真理は、「真理は常に自己否定によって次元的転換を
なす」(全集第1巻、109ページ、上段)と、論理の世界でも、自己参照的であり、その
ように語られているのです。
そのような荒野や廃墟という非日常の世界に棲む人間ならぬ人非人の人間が、自己否定の笛
を吹き、否定的に次元変換をして、変身をするのです。次元変換とは、この論文に明らかなよ
うに、自分自身を含んだ外部と内部の交換のことであり、主体と客体の交換のことです。
こうして1、2、3と考察して参りますと、10代までは、自分の外部にあり、憧れであった
永遠の死の、また不死の世界の、湖底の白樺で製作した小枝の笛が、20歳の『詩と詩人(意
識と無意識)』、そして26歳の『牧神の笛』を経過して、自分がその永遠の廃墟と荒野の世
界に入っていって(湖ではなくなり、地上になります)、そこで孤独に演奏をする笛とその音
色というように変わっていることが解ります。
しかし、その笛を演奏するということの意味は、やはり『(霊媒の話より)題未定』のとき
から変わらず、生命を取り戻し、復活し、恢復し、蘇生するという効果をもたらすものである
ことに違いがありません。
そうして、『牧神の笛』を読むと、そこには同時に、小ささを思考する、安部公房の、安部
公房独自の愛があり、このように独自の愛のあり方があるということを忘れてはなりませ
ん。」

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ここまで振り返つて見ても、
一般式:存在[(始め、終り)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人、窓]
といふ函数式の有効性は変はらぬことが判ります。これをもう少し「問題下降」[註2]する
と、たとへば第1章は、
存在[(始め、終り)、(かいわれ大根、甲高い音(鳴らないベルの音、巡回員の呼び子)、
呪文類(蟻走感、チリチリ)、案内人(「トンボ眼鏡の看護婦」)、脱出口(人面スプリン
クラー、坑道)]
といふ事になります。
[註2]
「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)をご覧ください。詳述しました。

『カンガルー・ノート』の概念連鎖で見ると、赤字にした次の連鎖の単位が第1章に関係し
て登場したといふ事になります。
ー「地獄谷みたいな硫黄泉」の臭ひー硫黄泉の露天風呂ー存在の凹ー賽の河原ー呪文類ー満
願駐車場ー未分化の実存の子供達(「トンボ眼鏡の看護婦」)ー窓ーサーカスー人さらいー
列車ー駅ー交通体系ーポイントの切り替え(支線から本線へ)ー笛の音(警笛の音)ー(時
間の断面の複数の断層ー「私」の自己増殖ー)風の音ー祭り(ーサーカスー人さらい)ー
「4。『唖のむすめ』の笛
以上の考察を元に、小説の中の笛を見てみましょう。
『唖のむすめ』のなかに、次のような対話の個所があります(全集第2巻、286ページ)。
1949年、安部公房、25歳。
「―でもみんな、私の声を笛のようだといって笑います。
 ―笛……結構なことではないか。愛の言葉は甘い囁きといわれるように、笛のようにでも
囁けば効果は一団と
高まるにちがいない。春の微風のような笛の音の中で、恋人たちは眼を閉じて囁きまた囁き
かえす……結構な
ことだ。
 ―囁きって、どんなものでしょう?

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 ―人の魂の奥底まで吹き込む風のような言葉だ。」
ここを読みますと、こうして、笛を吹くということが、やはり、上で見たように、愛との関
係で語られていることが判ります。
既に見て来たように笛の音は、この世のものから鳴り響く音ではありませんから、愛の囁き
が笛の音であるとは、既にして愛がそのようなこの世のものではなく、そういう意味では、
永遠の、死の世界の愛であるということになるでしょう。これが、安部公房の逆説的な、笛
という視点から眺めた、愛です。
そうして、やはり、「人の魂の奥底」というのは、上で参照した『没我の地平』の『光と影』
や『天使』の末尾の散文の個所に同じです。笛を思うと、安部公房は、何かの奥底を連想す
るのです。それが、湖底であれ、池であれ、人間の魂の奥底であれ。
このように、安部公房の愛は、いつも死と背中合わせです。
さて、さうすると、笛の音の鳴つた際には、しかし特に笛の音の鳴らない、即ち沈黙の笛の
音の鳴つた後には、「安部公房は、何かの奥底を連想するのです。それが、湖底であれ、池
であれ、人間の魂の奥底であれ。」といふ事になるのですから、『カンガルー・ノート』で
も同様に「何かの奥底を連想」して、その奥底が登場するのに違ひありません。それが、地
獄です。あとで「呼び子を吹いて」「大型のコンクリート・ミキサー」の鳴らす「短いクラク
ション」に「こたえ」る巡回員が、その動作をする前に次のやうに主人公に話しかけます。
「「これ、荷札がついている、ほら、あんたは一種の宅配便かもしれないよ」ベッドの脚に
針金でくくりつけた荷札に懐中電灯をあて、「何処か、硫黄泉に送られるところだったらし
いね。なんとか地獄……読めないな、インクが擦れてしまっていて……すると、むしろ遺失物
かな。とにかく交番に問い合わせてみてあげるよ」」(95ページ上段)
『唖のむすめ』の笛について付け加へますと、上記の引用の前に「その日のつむじ風はむす
めの中に入りこんだまま、いつまでも出ようとはせず、内心の声となってむすめを誘うの」で
したが、その後に、この啞の娘の言葉として「私は学校で習った言葉しか話せません。まる
でタイプ・ライターを打つように、指で宙をなでまわしたり、唇の具合を幾通りかに調節す
るだけですもの」と続き、傍線の所は繰り返しですので、地の文の呪文と解する事ができます。
このあとで、上記の引用の「―でもみんな、私の声を笛のようだといって笑います。」以下の
会話があるのです。
5。『R62号の発明』の笛
『R62号の発明』に、主人公がロボットになったあとに、色々と試験されるところで、次の
様に笛が出て来ます(全集第3巻、421ページ下段から422ページ)。1953年、安

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部公房、29歳。
「所長がさらにダイヤルをまわし、また草笛の音がした。するとR62号君の気分はページを
めくったような唐突さで変化した。こんどは急に落着きをなくし、そわそわと立ち上がっり、
何か大事な忘れ物をしたような気がするのだ。」
ここでは、草笛が出て来ます。この笛が鳴ることが、「何か大事な忘れ物」を思い出させる
ようです。これは、湖底の、姿を変えた白樺の木ではないでしょうか。それが証拠に、この
草笛の音は、やはり歌と結びついて、この小説の中では、詩を呼び出す役割を演じています。
次のような詩が歌われます。
「涙をうかべた青い雲
 母さん雲にしかられて
 お山をこえて行きました
 うたってみると、不思議なことに、彼のまったく知らない歌なのだ。知らないくせに、歌
と文句が、次から次に自然に出て来る。所長とドクトルが噴きだした。歌っているあいだじゅ
う、笑いつづけた。」
これも確かに、主人公がその心の底から思い出された、日常の世界では忘却されている歌の
ひとつなのでしょう。そうして、その歌を歌うと、この世では笑いの対象となるということ。
世人には理解されない、逆の効果をもたらし誤解を受ける、主人公の愛が、ここにあるとい
うことになるでしょう。」
呪文について云へば、上記引用の「所長がさらにダイヤルをまわし、また草笛の音がした」と
ある「ダイヤルをまわし」た事に電話のダイヤルの音が繰り返しの呪文足り得るでせう。何故
ならば、同じページの下段に、この引用の前に「いくつものダイヤルや目盛盤やレバーが複雑
に並んでいた。ふと草笛の様な音がした。箱とR62号君の頭の中と、両方で同時にしたよう
だった。たしかに何かの合図である。R62号君は何事かがはじまる予感に、息をとめて待っ
た。」とあるからです。
6。『第四間氷期』の笛
『第四間氷期』にも、その小説の最後のところ、主人公が死を目前にしている局面、外部と
内部がすっかり交換されて、それまで身近にいて自分の部下だと信じていた人間達が、別の外
部の組織の人間達であり、しかもその組織によって、コンピューターの預言通りに殺される場
面で、笛が出て来ます。1958年、安部公房、34歳。
「「気が遠くなるくらい、遠いな……」
 後ろで誰かが呟いた。山本氏らしかった。本当に遠い……未来はまるで、太古のようには

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るかなのだ……きゅうに胸がふるえて、はきだしていた息が逆流し、喉の奥で壊れた笛のよう
な音を立てた。」(新潮文庫版。全集では第9巻168ページ下段)
ここでは、未来という時間と過去という時間のそれぞれの長さが、コンピューターという預
言機械 [註]によって交換され、二つの無限遠点の間に存在する人間が意識されていて、言わ
ば空間的な無時間、または安部公房の好きな言い方を使えば、時間の空間化の行われるここ
で、笛の音が(直喩ではありますが)聞こえるのです。
[註]
 この預言機械たるコンピューターが、実は主人公、勝見博士の意識の総体であり、言わば鏡に写した自分自身
の姿であったということ、或いは逆に、勝見博士がコンピューターの姿見であったということを、ここでも思い
出すことにしましょう。即ち、主人公の自己の在り方が、上の1で引いた『光と影』という詩の「無名の吾」の
在り方と同じように再帰的、自己参照的であることを。これは、他の小説に於いても同じであり、安部公房の小
説の主人公の典型的な特徴です。『第四間氷期』の預言機械たるコンピューターは、『光と影』という詩の「無
名の吾」であるということができます。

「壊れた笛」という、この「壊れた」という形容が、既に主人公の死を意味しています。「壊
れた」という形容をしたので、安部公房は、笛が鳴ったと隠喩を使わずに、「笛のような」
という直喩を使ったのでしょう。もし「壊れた」という形容をしなければ、安部公房は、喉
の奥で笛が鳴ったと書いたことでしょう。安部公房がそう書かなかったほどに、勝見博士は
死ぬべきであったということになります。
以上の1から6までを考察して来て、笛の鳴る契機は、時間が無時間になる、時間が空間化
される場所だといってよいでしょう。そこは、同時に(同時にとは何か、です)、意識を有
する当人を含んで、外部と内部が交換され、主体と客体が交換される場所でもあるのです。そ
して、そこに笑いが生まれ、通り一遍ではない愛の証明がなされる。そして、外部と内部の交
換とは、往々にして、生と死の交換を意味しております。
「喉の奥で壊れた笛のような音を立てた。」と新潮社版にある此の笛の直喩が、全集には「喉
の奥で壊れた変な音を立てた。」となつてゐるのは、この笛の音の前に呪文の繰り返しの言
葉がないからであるといふ事になります。ここでは、笛の音の理解のために、あへて笛の音の
ある前者を採りました。何故ならば、上の通りの「笛の鳴る契機は、時間が無時間になる、
時間が空間化される場所」、即ち「外部と内部の交換」であるといふ論理は変はらないから
です。
7。『カンガルー•ノート』の笛
10代の詩の世界から、安部公房の何十年もの人生を閲(けみ)して、笛とその音色は生き続
けます。1991年、安部公房、67歳。

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この小説には、3度、笛という言葉が出て来ます。
一つ目は、チベットの大笛
二つ目は、やはり、草笛
三つ目は、「喉を笛のように吹」いて出る声の音色
最初の笛は、「2.緑面の詩人」に出て来ます。主人公が桟橋のところにいて、船が近づいて
来て、その中に入って叫びます。
「「誰か、いませんか?」
 天井のアーチは、残響効果を強める構造になっているらしい。ぼくの声は意味なく拡散し、
壁から壁に反響を繰り返し、チベットの大笛に負けないほどの咆哮になって鳴り響いた。」
(105ページ上段)
この「誰か、いませんか?」という、チベットの大笛にも負けない笛の声は、やはり、この
世ではない世界の声であるのでしょう。確かに、カンガルー•ノートの主人公の巡る空間から
空間への旅は、この世ではなく、あの世というべき、異空間の、地獄巡りとも言うべき旅で
あり、そして、この空間は、上の引用にもあるように、残響の激しい、沈黙の、静寂の空間
であり、そういう意味では、リルケの純粋空間を安部公房が小説の世界で再現したような、
従い、その音もまた沈黙の音であるといってよい音になっています。
この引用の前段には、安部公房の好きなピンク•フロイドのアルバム『鬱』の出だしの「櫓を
漕ぐひそかなきしみ、船縁をたたく水の音」が出て来ます。この音をYouTubeで聞きますと、
やはり沈黙の音という音に聞こえます。:https://www.youtube.com/
watch?v=r_HqqL43TD0&list=PLFABDED4BA02D97A9
二つ目の笛、草笛は、「6.風の長歌」で出て来ます。この題名からして、笛の音は、既にこ
の『カンガルー•ノート』の世界では、風の音になっているのでしょう。そして、笛との連想
から、やはり風の音が、長歌という歌(詩)に繋がっていることが判ります。
「「はい、体温計……顎の氷嚢、替えましょうね」
 「すごい風ですね」
 「風?」ちょっと小生意気な印象は、ピーナッツみたいな小鼻のせいだろう。「あれは屋
上の冷房タンクの音  
  よ、いかれかけているんだ……」
 「そういう音じゃなく、空いちめんに……たとえば、何百個ものハーモニカを撒きちらし
て、肺が焼けるほど
  力一杯吹き鳴らしているみたいな……」
 「キザなこと言うじゃない」

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 「ぼく、草笛がふけるから」
 「そんなにおしゃべりして、痛くないの?」
 「喋るのは平気みたいだけど、なぜか鼻血が止まらないんだ」」
(160ページ上下段)
こうして、安部公房の概念化した笛を見て来て、主人公と看護婦のこの会話を読むと、草笛を
吹くとは、自分が死んでもいいのだという意味に理解することができます。そうして、この会
話を読むと、実に切ない、しかし、距離感のある、そしてお互いのこころの通じた、安部公
房らしい、いい会話になっています。
三つ目の笛も、草笛と同じ章に出て来ます。夜になって消灯のあと、いつも聞こえて来る老人
の苦しみの呻き声です。
「喉を笛のように吹き、老人の呻きは、しだいに哀願の調子をつよめてきた。」
とあるように、既に老人ということから、死の笛の音だということがわかりますが、ここま
で何気なく枯れた書き方にできるほどに、安部公房は笛とその音色を自分のものにしたとい
うことなのです。
「喉を笛のように吹き」と、直喩を使っていることから、既に『第四間氷期』で勝見博士に
見たのと同様に、この老人には間違いなく死ぬべき運命があることを明確に示しているのだ
と解釈してもよいでしょう。
ここまで明瞭な死の笛の音もまた、遂に至った安部公房の愛の笛の音なのだと思います。」
これら三つの笛の音の前に唱へられる呪文は次の通りです。
一つ目は、チベットの大笛(105ページ上段):
①「波がよせるたびに甲板が洗われる。」(104ページ下段)
②「櫓の動きは、(略)のんびりと静かに揺れているだけだ。」(105ページ上段)
二つ目は、やはり、草笛(160ページ上段):
①「「いや……」わずかに顔を左右に振って、小声でうめくだけにした。」(160ページ
上段)
②「(略)空いちめんに……たとえば、何百個ものハーモニカを撒き散らして、肺が焼ける
ほど力一杯吹き鳴らしているみたいな……」(160ページ上段)
三つ目は、「喉を笛のように吹」いて出る声の音色(166ページ上段):
①「ドンドン焼き」といふ言葉と

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②「ドンドン焼き」についての、「ドンドン焼き」といふ言葉を使つた会話のやり取り
更にもう一つ第5章新交通体系の提唱の冒頭の四つ目の笛を追加します。
四つ目は、犬笛(145ページ上段):
①チャーシュー麺を啜(すす)る行為と音は、繰り返しの呪文と解する事ができる。
しかし、連続して此の章の冒頭に繰り返される次のニュートラルの論理、即ち超越論の論理
の3回の繰り返しが、呪文である。
②「チャーシュー麺を半分だけ残し、かろうじて平らげた。残して、平らげたというのは、矛
盾した表現だ。」(145ページ上段)
③「引き戸の外はモノクロームの朝。明暗の識別には十分だが、色彩を行き渡らせるまでに
は熟しきっていない時刻。」(145ページ上段)
④「一番電車は出てしまったが、二番電車の発車までには間があるらしく、駅前の県道はひ
どく閑散としていた。」(145ページ下段)
着目すべきは、このニュートラルといふ概念に基づいた文章が3回連続して続いてゐるといふ
事です。この3といふ数字による回数の連続は何を意味するのかは「(24)3といふ数」
で後述します。この概念を表した冒頭の3回の繰り返しは、この章の(安部公房の執筆の)
目的と(安部公房が賦与した、他の章にはない此の章の特別な)性格を表してをり、何故こ
の章で「トンボ眼鏡の看護婦」と「垂れ目の少女」が案内人の役割を、存在の奥宮、即ち天
神様の社殿で交代するのかを、また作品全体の中では其れまでの交通体系から(超越論に基
づく体系である)新交通体系への切り替への章である事を、最初に読者に提示してゐるのです。
これらの笛を考へてまとめると、安部公房の笛の形象とは、次の意味のある笛であるといふ
ことになります。
(1)笛は、自然の中の樹木の枝を折つて製作される。(樹木は時間のないリルケの純粋空
間を垂直に果てしなく成長する植物)
(2)枝を折るといふ行為は、生命の恢復を願って、主人公が白樺の小枝を手折るわけであ
るが、その笛は鳴らない場合には、即ち、(a) 主人公は死者のままだという解釈をすることが
できる。或いは、(b) 狂気の状態から脱することのできない閉鎖空間の中の主人公の状態を表
している。
(3)笛は、白樺の「雪と命の不思議な謎」についての物語を歌ふ。
(4)白樺の物語とは、上記(2)の永遠の中に閉じ込められた生と死の物語である。これ
は上記に引用した安部公房の小説観と世界観を表してゐる物語である(『何故安部公房の猫
はいつも殺されるのか』(もぐら通信第58号)の「IV 安部公房の小説観と世界認識」よ
りの引用参照)。安部公房の作品の全ては「雪と命の不思議な謎」を歌ふ「白樺の物語」だ

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といふことができる。
(5)その笛を演奏するということは、やはり『題未定(霊媒の話より)』のときから変わ
らず、生命を取り戻し、復活し、恢復し、蘇生するという効果をもたらすものだ。これは、下
記(8)(9)(10)で行はれる。
(6)笛を思うと、安部公房は、何かの奥底を連想する。それが、湖底であれ、池であれ、
人間の魂の奥底であれ、また『カンガルー・ノート』の地獄の底の底の底であれ。
(7)笛の鳴る契機は、時間が無時間になる、時間が空間化される場所である。そこは、同
時に(同時にとは何か?ですが)、意識を有する当人を含んで、外部と内部が交換され、主
体と客体が交換される場所でもある。そして、そこに笑いが生まれ、上記(5)の生命の蘇
生のために主人公の死と引き換へに、通り一遍ではない主人公の持つ愛の存在の真実性の証
明がなされる。愛ー存在ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明と云ふ概念連鎖がある。これ
は、安部公房がリルケに学んで自家薬籠中のものとしたもの。従ひ、外部と内部の交換とは、
往々にして、生と死の交換を意味してゐる。
この笛の鳴る契機は、『カンガルー・ノート』の作品全体の場合であれば、第5章新交通体
系の提唱のあの駅の側の踏切の、オートバイ族が「二十秒」早すぎる到着を「既にして」して
ゐて、「太鼓に仕立てた象の剥製を、全員が乱れ打ちしな柄通過してしまった」後で警笛とい
ふ笛の音の鳴る、始めと終はりの無い超越論的な遅延の生じる存在の十字路です。さうして、
ここで、主人公は「トンボ眼鏡の看護婦」と、後者が今ある交通体系から降りて、案内人の
役割を(新交通体系に支線から本線にポイントを切り替へて登場する)「垂れ目の少女」と
交代するので、永遠の別離をする事になり、また「トンボ眼鏡の看護婦」にはキラー君とい
ふ恋人も登場し、主人公は「トンボ眼鏡の看護婦」に対する愛の真実性の証明をしてゐる。
(8)笛を吹くということが、やはり、(7)で見たように、愛と永遠の別離との関係で語
られている。安部公房の愛は、いつも死と背中合わせである。そして別離の場所は、時間の
捨象されてある存在の十字路である。
(9)安部公房の贋と閉鎖空間の論理によれば、上記(2)(b)の狂気ということから、笛の
音が響くと、ここから先主人公の意識には閉鎖空間からの脱出が意図される。そのために「ト
ンボ眼鏡の看護婦」から「垂れ目の少女」に案内人の役割の交代が第5章の新交通体系の提
唱で行はれる。
(10)この笛の音が蘇生させる空間は、チベットの大笛を吹くやうな「残響の激しい、沈
黙の、静寂の空間であり、そういう意味では、リルケの純粋空間を安部公房が小説の世界で
再現したような、従い、その音もまた沈黙の音であるといってよい音になって」ゐる。それ
故に、第7章人さらいの章の最後に、「ピンク・フロイドの……むかし、サーカスのときよ
く聞いた」「狂気の静寂」の音楽である『エコーズ』(木霊)が鳴り響く。
(11)笛の音は、やはり歌と結びついて、小説の中では、詩を呼び出す役割を演じてゐる。
何故ならば、
(12)詩を書く事と散文を書く事が同じ原理、外部と内部の交換というtopologicalな原理
によって書かれてゐるからである。詩文の裏返しが散文であり、散文の裏返しが詩文である。

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(これは『無名詩集』の最後にあるエッセイ「詩の運命」(全集第1巻、264ページ)と
エッセイ『猛獣の心に計算機の手を――文学とは何か』(全集第4巻、492ページ)に、
双方の表現形式の裏表の関係として、実際に書かれてゐる。)従ひ、
(13)日本の文学の伝統から見ても[註3]、(12)のやうにtopologyの視点から見て
も、安部公房の小説の中に詩が詠まれる事は必要必然のことである。
(14)上記(12)と(13)のことは、初期安部公房が詩人のままに小説家になるため
に確立した様式「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」のtopologyと、旅と鎮魂といふ日本
の詩の伝統と、また大和物語や伊勢物語や源氏物語以来の歌物語の様式とを、一次元上で統
一したといふ事である。
[註3]
『旅と鎮魂の安部公房文学』(もぐら通信第65号)をお読みください。詳述しました。

かうして考へて来ると、上記(8)から(14)も考へ併せると、笛の音を巡つて、
愛ー存在ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文
のtopologicalな交換ー沈黙の空間の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー閉鎖空間から
の脱出
といふ概念連鎖がある。これに、これまでに得た次の一般的な概念連鎖、即ち
座標の喪失→(何かの開始を告げる)甲高い音→呪文類を唱へる→自己喪失(意識・無意識
の境界が曖昧になる)→存在の出現
といふ連鎖を加へると、次のやうになります。
座標の喪失ー愛ー存在ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー(何かの開始を告げる)甲高
い音(ここでは笛の音)ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文のtopologicalな交換ー
沈黙の空間の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー自己喪失(意識・無意識の境界が曖
昧になる)→存在の出現ー閉鎖空間からの脱出
これらの概念連鎖が総て、函数形式の一般式、即ち、
一般式:存在[(始め、終り)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人、窓(脱出
口)]
といふ中に収まってゐるのです。

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存在は差異に存在するわけですから、式の中の存在といふ語の中に含まれてゐるわけですが、
もし此の事実を忘れぬために式に入れて置きたいといふのであれば、次のやうにすることも
できます。案内人は立て札と等価ですし、安部公房の時間の無い空間では、有機物も無機物
も生きてをりますので、これらのことも考慮すると、
一般式:存在[(始め、終り)、差異(時間、空間)、(存在の形象、甲高い音、呪文
類)、案内人(立て札)、窓(脱出口)]
とすると分かり易い。
もしあなたが差異を主題に安部公房を論じたいといふ事であれば、差異を内部から外部に出
して、存在と交換すると、
一般式:差異[(始め、終り)、存在(時間、空間)、(存在の形象、甲高い音、呪文
類)、案内人(立て札)、窓(脱出口)]
といふ式で論ずることになります。
上記の或る程度時間を含む概念連鎖一式と時間を捨象して在る函数形式の一般式を比較しな
がら、その間を往来する事によつて、あなたの安部公房文学への理解は相当に深まる筈です。
高級な娯楽、高級な言葉の遊戯だと思つて、「……むかし、サーカスのときよく聞いた」「狂
気の静寂」の時間と空間をご自分で用意したら、たつた一人になつて、あなた自身の孤独
(solitude)の中で、その贅沢を存分に享受して下さい。この二つの概念連鎖一式と函数形式
の一般式を行つたり来たりする事で、結局あなたは超越論の本質を知るに至ります。即ち、何
かの時間の中での(始め、終り)と其の肯定と否定を考へ、さうして(始め、終り)の外の
((存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人、窓)の関係を、或る程度時間を含む概念連
鎖一式で考へる事、それから其の逆に概念連鎖一式から函数形式へと、二つの間を往来する
事によつて、あなた自身の/が超越論を自覚するに至ります。この二つの式は、そのための方
便だと思つて下さい。
以上が、安部公房文学の世界での、笛と笛を巡る事についてのお話です。
安部公房独自の記号を使つた詩文・散文のtopologicalな交換による閉鎖空間からの脱出とい
ふ事に関しては、初期安部公房について『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語
について』(もぐら通信第56号から第59号)で詳細に論じましたので、これをご覧くだ
さい。
この上記の概念連鎖一式と函数形式の一般式を使つて、また上の(1)から(14)の事実

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を目安にして、『カンガルー・ノート』の第2章以降の個別の章の笛の音を巡る超越論的な探
索と考察ができる筈です。ここでは範を示すに留め、あとは、安部公房の読者であるあなた
の自由(freedom)にお任せ致します。
(つづく)

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リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(14)

∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉
XIV
WIR gehen um mit Blume, Weinblatt, Frucht.

Sie sprechen nicht die Sprache nur des Jahres.

Aus Dunkel steigt ein buntes Offenbares

und hat vielleicht den Glanz der Eifersucht
der Toten an sich, die die Erde stärken.

Was wissen wir von ihrem Teil an dem?

Es ist seit lange ihre Art, den Lehm

mit ihrem freien Marke zu durchmärken.
Nun fragt sich nur: tun sie es gern?...

Drängt diese Frucht, ein Werk von schweren Sklaven,

geballt zu uns empor, zu ihren Herrn?
Sind sie die Herrn, die bei den Wurzeln schlafen,

und gönnen uns aus ihren Überflüssen

dies Zwischending aus stummer Kraft und Küssen?

【散文訳】
わたしたちは、花、葡萄の葉、果実と交流する。
これらのものは、一年だけの言葉、単年度の言葉では話さない。
暗闇の中から、多彩な、明きらかなもの、公然たるものが、上がって出てきて、そして、
それには、ひょっとしたら、大地を強くする死者たち自身の嫉妬の輝きが、あるかも知れない。
その多彩な、開かれているものの、死者たちの分、どれだけ死者たちがそれに関与しているかと
いうことについて、わたしたちは、何を知っているというのだろう。ずっと前から、長い間、粘
土に自分たちの自由な標章、印章をはっきりと刻印することが、死者たちの流儀、やり方であ
る。

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さて、こういうわけで、自分自身に問うでみるがいい。死者たちは、その刻印することを、好き
好んでしているのだろうか?と。この果実、すなわち、重たい奴隷の作品は、丸くなってわたし
たちの方へと高く投げられて来て、つまり、死者たちの(または、奴隷たちのと訳せる)主人た
ちへと、迫っているのだろうか?
死者たちというのは、根のところで眠っている男たち(または、主人たちと訳せる)なのだろう
か、そうして、わたしたちに、その剰余の中から、物言わぬ力と、数々の接吻から生まれたこの
中間物を恵んでくれるのだろうか?

【解釈と鑑賞】
前のソネットが、果実のソネットなので、それに続いて、葡萄の葉や、やはり果実が続いて歌わ
れる。それから、前のソネットで、果実の味が口腔の中でdoppeldeutig、ドッペルドイティッヒ、
(死と生の)二重の意味が掛けられているということからも、最後の連のZwischending、ツ
ヴィッシェンディング、中間にあるものという言葉が関係づけられています。勿論、死と生とい
うことから、死者も出てくる。
第1連の第2行のこころは、花や、葡萄の葉や果実は、その歳1年で終わりになるのではなく、
毎年繰り返して話をすると歌われている。
果実が、死から生まれ、その中に死を含むとリルケが考えていたことは、既に見てきた通りです。
この「多彩な、明きらかなもの、公然たるもの」とは、果物のことを言っているのだと思う。そ
れゆえ、暗闇の中から外へと、そこから生まれて、昇ってくると歌われている。既に、これも前
回書いた通り、リルケの垂直志向、垂直感覚というものがあって(これは悲歌5番にはっきり論
理的に出ている)、死からまた死であるがゆえに生まれ、育(はぐく)まれた樹木が高く伸長し
て、そこに枝が張り、そうしてそこに果実がつくということを前提に、リルケは詩を書いている
ので、その「多彩な、明きらかなもの、公然たるもの」も、昇ってくる、steigen、シュタイゲ
ンと書いているのだ。これで、第1部ソネットIの意味は、一層深まると思われる。オルフェウス
は、身を引き裂かれて殺されるのだから。
同じ死ということから、この果実には、死者が関係していないのだろうかと詩人は考え、続けて
歌う。本当は無関係であるので、それゆえ、ひょっとしたら、死者たちはその果実に嫉妬する
のではないだろうかと。なぜならば、死者たちは、大地を強くするものたちだからだ。
ここにも、粘土が出てきて、死者たちが粘土に刻印を押すことを言っている。第2部のソネット
XXIVを読むと、その第1連第1行にも粘土が出てくる。これは、手が製作する壺のための粘土、
それから、そうやって出来た壺に油や水が満たされるので、そのようにして(実際に家々も城壁

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も粘土を焼いて作るのではないだろうか)都市が生まれ、繁栄を象徴しての粘土という言葉が使
われている。(死、粘土、手)は、リルケの場合、連想のセット、数ある連想一式のひとつです。
奇妙な言い方だが、死者たちも生きているということは、悲歌の世界と同じである。ソネット
の世界も生と死が別なのではないリルケの世界なのだ。
さて、果実は、「重たい奴隷の作品」と言い換えられているが、これは何を言っているのだろう
か。連想がローマ時代に遡行して、当時の果樹園の様子を思い描いたのではないかとわたしは想
像します。確かに奴隷が仕事をして、果実を取り入れたのかも知れない。しかし、「重たい奴隷」
とは何でしょうか。上の散文訳に、( )を使って解釈の二重性を示したように、この奴隷と
は、死者たちのことではないでしょうか。最後の連を読むと、死者たちは、植物や樹木の根元
に眠っている様子です。それゆえに、「重たい奴隷」と歌われているのでしょう。(重たいこと、
重さの意味については、既に第1部ソネットIVで歌われている通りです。)そうして、奴隷の主
人たちとは、この果実を放り投げられる当の私たちということになります。
同じ主人たちということば、ドイツ語で、Herrn、へルンという言葉の連想と、この言葉の持つ
もうひとつの意味、男たちという意味から、最後の連は、死者たちは、男たちなのだろうか、
と始まります。それとも、死者たち自身が、前の連で、果物の登ってくる当の主人たちなのでしょ
うか。そのような意味の掛け合わされた含みを、最後の連の最初の一行はもっているように思い
ます。このことは、第1連の「ひょっとしたら、大地を強くする死者たち自身の嫉妬の輝きが、
あるかも知れない。」の「ひょっとしたら」に呼応していると思います。
さて、主人であるかもしれない死者たちは、根っこのところに眠っている。そうして、自分たち
の剰余、収穫の余りを、わたしたち人間に恵んでくれる。主人であれば、gönnen、ゲネン、恵
むという言葉も、その通りです。
この収穫とは、もちろん果実のことで、これは、死者であることから「物言わぬ力」からなり、
同時に、慈しまれて育てられることから「数々の接吻」から生まれた中間物といわれるのでしょ
う。中間物とは、もちろん、果実のことで、果実とは、第1部ソネットVIIIで書いた通り、死と
生の混合、死と生の文字通り中間にあるからです。
さて、最後にもう一度言いたいのですが、リルケの思想(ここまで来ると、思想といってよいと
思います)の、この大地の底には、死があり、死者が棲んでいる、そうして、そこから生の種子、
または種子の生が芽生える、そうして垂直の樹木になり、枝が生え、枝になり、果実が実る、さ
らに果実が大地に落ち、大地に戻って、大地の肥料になる。この繰り返しを、実感として創造し
たことは、素晴らしいことだと思います。これを、ヴィジョン、visionと呼ばずして、なんと呼
びましょうか。思えば、悲歌の1番、2番の天使たちも、その循環は、全く比較を絶したヴィジョ
ン、visionの世界でした。詩人は、ヴィジョンの創造者であると、わたしは思います。そのよう
な詩人こそ、詩人の名に値するのではないでしょうか。

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【安部公房読者のためのコメント】
1。粘土塀
(死、粘土、手)は、リルケの場合、連想のセット、数ある連想一式のひとつです。また存在の
片手(特に左手)については、『もぐら感覚6:手』(もぐら通信第4号)及び『安部公房ー横
顔に満ちた人』(もぐら通信第64号)で詳細に論じた通りです。
このことから、安部公房の『終りし道の標べに』を、あなたは連想するでせう。とすると、ここ
で思ふことは、この作品が大陸の満州を舞台にしてゐるとして、本当に其の地では、村を囲ふ塀
の素材が粘土であるのでせうかといふ疑問です。満州の荒野は粘土質の土地なのでせうか?
今満州の地質を調べると、安部公房の育つた奉天といふ町のある土地は粘土質ではありませ
ん。:満州地質及鉱産布図 其三 - 九州大学附属図書館:https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/
hp_db_f/ml/map/html/pop/71/71_03.html
もし此の小説が安部公房の経験に基づく写実主義の小説ならば、奉天の町のある砂地はどう考
へても粘土質ではありませんし、安部公房の小説が写実主義ではない以上、冒頭の問ひに対す
る答へは次のやうになります。
この作品の冒頭で主人公は粘土塀に存在の形象である凹を手形を押して残すことをするわけです
が、もう此の着想の最初からして安部公房の想像力を生かした、そしてリルケの此の詩に基礎を
置いた、安部公房の詩の世界なのでは無いのでせうか。さうであればこそ、真善美社版の初版
の冒頭にエピグラフを書いて、金山時夫の死を弔ふことの必要があつたことも十分に納得するこ
とができるのです。何故ならば、安部公房は金山時夫とリルケの此の『オルフェウスへのソネッ
ト』を共有してゐたからです。さうして、この詩の主人公オルフェウスと同じ自分の死を賭けた
「転身」の連続の無償の人生を生きようと誓ひ合つてゐたからです。金山時夫は、それほどに詩
を解する親しい友であつた。何故ならば、そのエピグラフは、『オルフェウスへのソネット』の
Vの冒頭の第一行「記念碑を建てることをしてはならない」を含むからです。
リルケが『オルフェウスへのソネット』を耽読して、さうして安部公房の空白の論理によつて沈
黙と余白の中に隠したといふことは『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語につい
て』(もぐら通信第56号)で論証した通りです。
2。死者たちも生きている
死者たちも生きているということは、悲歌の世界と同じである。ソネットの世界も生と死が別
なのではないリルケの世界なのだ。
何もかもをリルケとの関係で全てを関係付けるつもりはありません。しかし、リルケとの関係
では、死者たちもリルケの世界では生きてゐるわけですから、安部公房の世界も同様で、ここか
らあなたが戯曲『幽霊はここにいる』や『棒になつた男』や『友達』を憶ひ出し、小説ならば

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やはり失踪者の主人公たちの登場する有名な小説の名前を思ひ出すことは、その世界を理解す
るためには意味のあることではないでせうか。失踪したから死ぬのではなく、失踪「以前に」
死者同然だといふことなのです。
3。中間物としての果実
この収穫とは、もちろん果実のことで、これは、死者であることから「物言わぬ力」からなり、
同時に、慈しまれて育てられることから「数々の接吻」から生まれた中間物といわれるのでしょ
う。中間物とは、もちろん、果実のことで、果実とは、第1部ソネットVIIIで書いた通り、死と
生の混合、死と生の文字通り中間にあるからです。
これもまた、上記2に関係してある果実です。死と生の混合、死と生の文字通り中間にあるあな
たの人間としての有り方を、哲学(超越論)と数学(topology)の基礎の上に、安部公房はニュー
トラル(neutral)と呼びました。いつも現実の時間の中では値がゼロであり続ける人間のこと
です。『魔法のチョーク』の主人公アルゴン君といふ物質の名前から採つた人間の値がゼロであ
ること[註1]を憶ひ出して下さい。
[註1]
「『魔法のチョーク』論」(もぐら通信第52号)をご覧ください。名前の由来も含めて、この作品を詳述しまし
た。

または、『名もなき夜のために』の次の箇所を憶ひ出して下さい。
「『カンガルー・ノート』論(2):安部公房文学と大地母神崇拝」より以下に引用してお伝へ
します。
「さて、この、母親の胎内での典型としての詩人の永劫回帰を、安部公房は『名もなき夜のため
に』の中で、安部公房らしく数学的に、そして実に美しく、次のやうに語つてゐます。傷といふ
人体の痛みの割れ目、しかし依然として傷口といふ差異の話です。
「気をつけてみれば、どんな傷からでも、生と死を含めた全存在の傷が成長するのに気づくはず
だ。これが貧しい僕にはせい一杯の贈物であるらしい。
 そしてもしそれが役立つものだとすれば、負数の時間を歩むことは丁度人間が胎児のあいだに
生物の全歴史を繰返すように、すべての人に繰返される物への復帰の道だと考えてみたらどうだ
ろうか。死は生のおわったところにあるのでなく、その二つは常に等量に保たれていてその間の
振幅が現世であるように、正数の時間は等量の負数によって僕らを絶えず脱皮させるのではない
かと……。この負数の道が物への没落が、単に傷つき破れた少数のものだけの道ではなく、実
に人間そのものが大きな傷であり、その道だと考えるのはもう傷ついたものの自己弁護になって

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しまうであろうか。僕は知りたい。物に落ちてゆき、あるいは高まった人びとの叫びが、もう
現世にはとどまり得ぬ儚いものにすぎなかったか、ほんとうに現世にとどまることがなかった
か?そして反省や疑いや批判や、または嘲りや自虐がもうついて来られぬほど深い物の世界を予
感し、無名になった部分だけであえてその中へ落ち沈み、融け去り、いままで自己の外部だと
ばかり思っていたものが、突如自分自身であることを主張しはじめるのに驚いた人の、例えば詩
人たちの声が、ほんとうに傷ついた人びとの心を覆ってやる力を持たなかったかどうか、知って
見たい。」
(『名もなき夜のために』全集第1巻、553ページ下段)(傍線筆者)」

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Mole Hole Letter
(4)

デカルト
岩田英哉

若い頃読んだ小林秀雄の批評文の中に、海沈は易しいが陸沈は難しいといふ一行があつて、こ
れはいい言葉だと思ひ、浮世に出てからも折に触れて思ひだす言葉の一つです。また此の優れ
た批評家の言葉で、やはり心に残つてゐる言葉のもう一つに、文藝時評の『アシルと亀の子』
であつたか、またドストエフスキー論であつたかに、本当に何とかして天才の書いてゐる一行
の意味を、その言葉の意味を知りたい、知ることができるやうになりたいものだといふ言葉あ
りました。後者については、ああ本当に其の通りだ、私も何とかして天才たちの書く言葉の真
価を知りたいと切に思つた。前者についても、ああ、このやうに生きたいものだと、本当は順
序は逆で、私自身が其のやうな人生を密かに願つてゐたが故に、小林秀雄の言葉が、私の胸に
響いたのでありませう。
陸沈者とは論語や『荘子』に陸沈者としてあるので、言葉の由来は一般的であり、大陸の古代
からの言葉といふ事になります。
デカルトは、17世紀のフランスのバロックの陸沈者です。哲学者であり、数学者である(時
代と世に隠れて棲んだ)隠者といふ事になります。
安部公房は、全集を読むと、この哲学者の名前も沈黙と余白に置いてゐるので、リルケの『オ
ルフェウスへのソネット』と同様に耽読して共感を覚えた哲学者の一人ではないかと思はれま
す。安部公房らしい事に、ニーチェの名前は文字になつて全集の中に登場しますが、デカルト
は出て来ない。とすれば、安部公房にとつては重要な哲学者であつた事になる。と、考へるこ
とができます。仮に、さう仮定を措いてみる。
私たちは影響といふ言葉を余りにも安易に、その意味も碌に考へずに使ひ過ぎる。順序は逆で、
奉天といふバロック様式の町で育つた安部公房といふ子供が身内に養つた思考論理は「奉天の
窓」[註1]といふ最初からtopologyの論理ですから、デカルトの考へ方が、安部公房の好みに
あつてゐたといふことが、本来の物事の順序でせう。
[註1]
「奉天の窓」といふ存在の部屋への窓については、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32
号及び第33号)に詳述しましたので、お読み下さい。

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デカルトは陸沈者です。さういふ意味では、17世紀フランスのもぐらです。
余談ですが、最近知るところがあつて、大正時代の日本では(あるいは明治時代からなのかも
知れませんが)、ネオバロック様式を採用して東京といふ都市に取り入れて首都の景観を造形
してゐて、当時四谷にあつた四谷見附橋が、その様式で作られてゐるのです。当時の日本には、
国家戦略的な都市計画の基本設計図(grand design)があつたことが判ります。この橋は市ヶ
谷のそばにあつて、学習院に通つてゐた小学生の三島由紀夫も通り、よく知つてゐた筈の橋で
す。ちなみに三島由紀夫の好きな聖セバスティアンの弓矢で射抜かれた裸体の絵の画家の一人
グイド・レーニは、デカルトと同じ時代を生きた17世紀のイタリアのバロックの画家です。
四谷見附橋は、今は鉄橋に架け替へられてしまつてをりますが、当時の現物の橋が、私の住ま
ひする直ぐそばに移築されて其のまま橋として使はれてをります。通俗的な言ひかたをする方
が此の場合うまく伝はるかも知れませんのでさう云へば、藝術の香気漂ふ橋です。
これで何故奉天がバロック様式の町なのかの理由の一端はわかりましたが、それでも尚、奉天
といふ町を知るために日本の建築史を調べることは大切なのではないかと思ひます。ともあれ、
二人の藝術家の子供の頃から知る藝術様式が、大陸であれ島国の日本であれ、実際に身近な生
活上の様式としても、バロックが共通項であるといふのは具体的な新しい発見です。
安部公房がデカルトをどのやうに理解したかは、後年、ジュリー・ブロックによるインタビュー
に答へて次のやりとりがあります。
「扉は窓と同様に、また窓にはフランス窓という扉のような高い窓もあるわけですから、従い、
人間が高い扉であるならば人間は内部と外部の通路であり、何故通路たり得るかといえば、そ
れはリルケの世界では呼気の出入りによっていつも内部と外部が交換され、その交換の場所が
人間なのであり、従い人間は透明な函数であるからです。これは、このままついに一生涯の、
人間の一人称である私という主観(subject)についての、安部公房の不変の認識でありました。
ジュリー・ブロックによるインタヴューでの、安部公房の次の回答をお読みください。この発
言は、何度引用しても引用過ぎることのない、安部公房の考え抜いた本質と実存という概念の
関係を理解するためには、大変重要なテキストです。『奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房
の数学的能力について∼』(もぐら通信第33号)より引用します。
[註7]
(略)
また、中埜肇の言う「当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に
近い意味に解していた。」(宮西忠正著『安部公房・荒野の人』35ページ)という正確な理
解については、晩年安部公房自身が、デカルト的思考と自分独自の実存主義に関する理解と仮
面についての次の発言がある(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から4
79ページ上段)。ジュリー・ブロックとのインタビュー。1989年、安部公房65歳。傍
線筆者。

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「ブロック 先生は非常に西洋的であるという説があるけれども、その理由の一つはアイデン
ディティのことを問題になさるからでしょう。片一方は「他人」であり、もう片一方は「顔」
である、というような。
 フランス語でアイデンティティは「ジュ(私)」です。アイデンティティの問題を考えるとき、
いつも「ジュ」が答えです。でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでてきませんで
した。それで私は、数学のように方程式をつくれば、答えのXが現れると思いました。でも、
そのような私の考え方すべてがちがうことに気づき、五年前から勉強を始めて、四年十ヶ月、
「私」を探しつづけました。
安部 これは全然批評的な意見ではないんだけど、フランス人の場合、たとえば実存主義とい
うような考え方をするのはわりに楽でしょう。そういう場合の原則というのは、「存在は本質
に先行する」ということだけれども、実は「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」
が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまうということ
です。
ブロック それは、西洋的な考えにおいてですか。
安部 そうですね。だけど、これはどちらかというと、いわゆるカルテジアン(筆者註:「デ
カルト的な」の意味)の考え方に近いので、英米では蹴られる思考ですけどね。」
安部公房の「主観・客観等価交換表」を再掲します。

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デカルトの人生には次のやうな明確な段階があります。『方法序説』を読むと解りますが、
デカルトは人生の計画を立てて、その通りに生きた。勿論その間、人間の人生ですから色々
なことが身に起き、人との生死の別離もあり、それらを運命として受け容れ、また夢をみて
人間の限界を超える不思議な力に預かるといふ経験も含めて、人間の能力を超えた慮外の力
も大切にしました。夢に従つたといふところが、安部公房に通つてゐます。上記に引用した
ジュリー・ブロックによるインタビューを再度お読み下さい。それから前頁の主観・客観等
価交換表も。
(0)人生の計画を立てる。
(1)人文学とスコラ哲学を学ぶ。
(2)「世間といふ書物を読む」:20歳過ぎから:30年戦争に従軍する;1619年1
1月10日:ドイツの宿にゐた時に炉部屋での思索に耽り、一生の方針を決める。
(3)哲学の確実な原理を打ち立てることを決心する:自分の住む家の立て直しをするため
に暫定の住まひとして仮の住まひを用意する。これが「仮の道徳」である。「仮の道徳」と
して世間の道徳といふ馬には乗つてみよ、人にはそつてみよ、そして全てを疑へ。
(4)オランダに隠棲する:30歳過ぎから:1628年、私は考へる、故に私は存在する
(cogito ergo sum)といふ思考論理の第一原理に至る。
(5)自分自身の研究をする:『世界論』『省察』『哲学の原理』を刊行する。
(6)哲学を教へる:1949年10月以降:最後の半年をスウエーデンの宮廷で過ごす。
上にあるやうなデカルトの人生の中で、安部公房に関係のあることを『方法序説』の中から
拾ひ上げると次のやうなものがあります。
光といふ発想:
『問題下降に依る肯定の批判ー是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光であるー』といふ安部公
房18歳の論文を読んで、私が奇異に感じたのは、この副題にある光が照らすといふ表現で
した。本文には更にかうあります。
「一体座標なくして判断は有り得ないものだらうか。これこそ雲間より洩れ来る一条の光な
のである。」
(全集第1巻、12ページ上段)(傍線は原文傍点)
安部公房は雲間と書いてゐますし、日本の国でも雲の間から一条の光が地上に射し入る光景
はあるでせうが、何か違和感があるやうに、最初読んだ時に思ひました。この隠喩(メタ
ファー)は日本の風土に余り馴染(なじ)むやうには思はれなかつた。これは論証の仕様が
有りませんので、私の想像といふことになりますが、デカルトの『方法序説』に次の箇所が
あります。これはフランス人のデカルトがさうならば、欧州大陸の人間は皆さうであらうと
いふことになります。安部公房は大陸にゐた子供の頃に、このやうな文字通りの高い天に雲
があつて、大地は広々としてゐる、さて天上の雲の間から一条の光が射し入る景色を見たの
でせうし、それは間違ひのないことでせう。欧州のキリスト教圏であれば、宗教的には、ヤ
コブの梯子といふのが、これです。

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これは、欧州の民話でいふ「ジャックと豆の木」に当たる話です。
さて、デカルトはかう書いてゐる。
「そしてまた、先にあげた三つの格率も、実は、みずからを教育しつづけようとする私の計
画にもとづいたものにほかならなかつたのである。すなわち、神はわれわれの一人一人に、
真なるものを偽なるものから分かつある光を与えているのであるから。」(中央公論社世界
の名著第22巻『デカルト』の「方法序説」184ページ下段)
デカルトの意志は、他人のそばにゐて見聞きはするのですが、終始一貫して自己による自己
教育にあります。デカルトもバロックの人間として再帰的な人間であり、常に「僕の中の
「僕」」といふ話法の中で自己参照して自学自習する安部公房と同じです。
ここでいふ三つの格率とは、上記「(3)哲学の確実な原理を打ち立てる」段階を生きるた
めの方便として取り敢へず採用した「仮の道徳」である次のものをいひます。
第1の格率:両極端を排して、普通の人のするやうに「穏健な意見のほうが実行するにいっ
そう便利であり、おそらくいっそう善いものである」から、これにしたがふこと。極端なも
のにデカルトは特に「あとになって自分の考えを変える自由を多少とも失うことになるとこ
ろの、約束というものを、すべて極端なことのうちに数えた」と云つてゐます。
第2の格率:私の行動において、できるかぎりしっかりした、またきっぱりした態度をとる
こと。ここに有名な森で道に迷つた時に森の外部へとでることの出来る例へが語られる。た
とへ迷つた道であれ、「できるだけまっすぐに歩むべきであって」、さうすれば「旅人たち

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は彼らの望むちょうどその場所には行けなくとも、少なくとも最後にはどこかにたどりつき、
それはおそらく森のまん中よりはよい場所であろうからである。」
第3の格率:「つねに運命によりもむしろ自己にうちかつことにつとめ、世界の秩序よりは
むしろ自分の欲望を変えようとつとめること」。何故ならば「一般的にいって、われわれが
完全に支配しうるものとしてはわれわれの思想しかなく、われわれの外なるものについては、
最善の努力をつくしてなおなしとげる事がらはすべて、われわれにとっては、絶対的に不可
能である」からであり、この習慣をつけることが大切である。
上記の第1の格率に挙げた未来の方向の中で事前にする約束は、「(4)オランダに隠棲す
る:30歳過ぎから」といふ段階では、極端なものではもはやなくなります。今風にいふな
らば、早期退職、early retirementです。デカルトは金持ちといふ訳ではありませんでしたが、
生活するに十分な資産を親から受け継いでゐました。30過ぎで陸沈者になつたわけです。
余談を云へば、私はデカルトを人生の大小の節々で読み返して来ましたが、この3つの格率
と、次に引用する4つの思考の原則とともに、デカルトには大変お世話になりました。これ
は浮世/憂き世に生きる人間の知恵です。4つの思考の原則とは次のものです。
(1)私が明証的に真であると認めたうえでなくてはいかなるものをも真として受け入れな
いこと。
(2)私が吟味する問題のおのおのを、できるかぎり多くの、しかもその問題を最もよく解
くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと。
(3)私の思想を順序に従つて導くこと。最も認識しやすいものからはじめて、少しづつ、
いはば階段を踏んで、最も複雑なものの認識にまでのぼってゆき、かつ自然のままでは前後
の順序をもたぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。
(4)何ものも見落とすことがなかったと確信しうるほどに、完全な枚挙と、全体にわたる
通覧とを、あらゆる場合に行うこと。
安部公房の読者にとつては、(1)は超越論、超越論に基づかない論理は必ず時間の中でズ
レが生じ、問題が生まれるので、そうでないものは受け入れないこと、(2)は安部公房が
頻繁に使用する3といふ数に従つて問題を分解することですし、問題下降であり、やはり
topologyです。(3)は、これに対して、問題上昇ですし、これもtopologyです。(4)は
全体と部分の対応関係、照応関係の確認をするといふこと、以上(1)から(3)のことに
抜けがないかどうかの仕上げの確認です。これもtopology。『カンガルー・ノート』論(も
ぐら通信第67号以降)をお読み下されば、このデカルトの思考原則通りに書かれてゐるこ
とが、別にtopologyと敢へて云はずとも、よくお解りになる筈です。
デカルトは、神(God)について次のやうに書いてゐます。
「神があり現存するということ、神が完全な存在者であること、および、われわれのうちに

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あるすべては神に由来しているということ、のゆえにのみ、確実なのである。」
(同書193ページ上段)
ここで判ることは、一言でいへば、既にデカルトにあつては、神も現存(即ち現存在)と存
在といふ概念がなければ有り得ないといふことです。「われわれのうちにあるすべては神に
由来しているということ」で有り、この事実は、神が現存在であり且つ存在することによつ
て、その由来があることです。この文章の前に、次の文章があります。これは、人間の自己
の再帰性、もつと正確に云へば、人間の言語の再帰性との関係で存在とは何かを述べてゐる
に等しい。ここは、全く安部公房の世界と同一同質ですので、少し長いやうですが、そのま
ま引用します。
「そして最後に、われわれが目ざめている時にもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っ
ているときにもまたわれわれに現れうるのであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも、
真であるとはいわれない(夢の思想には存在が対応しない)ということを考えて、私は、そ
れまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に真ならぬものであ
る、と仮想しようと決心した。しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、私がこ
のように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものか
でなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある(存在する)」Je Pense,
donc je suis.というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえ
ぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めてい
た哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。
(略)
私は、私が身体をもたず、世界というものも存在せず、私のいる場所というものもない、と
仮想することはできるが、しかし、だからといって、私が存在せぬ、とは仮想することがで
きず、それどころか反対に、私が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめ
て明証的にきわめて確実に、私があるということが帰結する、ということ。逆にまた(略)」
(同書188ページ)(傍線筆者)
「私は考える、ゆえに私はある(存在する)」といふ一行の根拠は、私は「必然的に何もの
か」であるといふこと、即ち存在であるといふことに依拠してゐるのです。他方、Godもま
た同様である。Godもまた何ものかであることが明らかである。安部公房は此のことを『終
りし道の標べに』で書いた。
このことが、この著作の冒頭最初の次の一行の展開された結論の一つなのです。
「良識はこの世で最も公平に配分されているものである。」
欧州白人種キリスト教徒同士が理解しあふのにGodを媒介とする必要はもはやなく、存在を
媒介として新しい世の中を創ることができるといふものの考へかたです。如何にデカルトが
Godの存在の真実性を証明しようとも、デカルトは存在といふ概念を媒介にしてGodの存在

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を証明したといふことになります。

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この上に、歴史的には、欧米白人種キリスト教徒の打ち立てた近代の哲学があるといふわけ
です。
上の一行は、欧米白人種キリスト教徒には必要な一行ですし、これはこのまま超越論になる
わけですが、しかし、私たち有色人種多神教の民族には不要なことです。何故ならば、私た
ちの世界は最初からGodという媒介を必要とはしない汎神論的存在論の世界、即ちほかの有
色民族と同様の八百万の神々の世界だからです。
デカルトの此の冒頭の一行は、あと100年後に彼らが絶対王政を倒して打ち立てた民主主
義といふ名前の政治形態の原理です。あなたの一票も私の一票も誰彼の一票も、等価で交換
可能であるといふ原理です。政治的にはどの人間の個人の値も等価であるといふことです。
しかし、他方、経済形態としては、裏表になつて、欧州の中産階級が興隆して創りあげた資
本主義の反面ではさうは行かず、貧富の差が激しくなり(何しろ此の制度は弱者・無知の者
からの徹底的な収奪の制度です、自国の民をも収奪する)、両面の均衡も崩れて、後者の理
由からマルクスが共産主義を考へて、政治にまで手を伸ばした。しかし、これがどんなに間
違つた考へであつたのか、千万単位で数へる何億人の人間を殺したかは、歴史の示す通りで
す。
かうなると、何事も初心に戻らねばならない。初心に戻れば天才の言葉も理解できよう。
あなたがもし、今の世の中は、日本もほかの国々も、いや地球上の国々が皆おかしいといふ
のであれば、民主主義と資本主義といふglobalismの貨幣の表裏のあり方がおかしいのです。
あるいは素材も、鋳造の仕方も、おかしいのでありませう。民族によつて歴史も文化も伝統
も異なるわけですから、個別地域別の、個別民族別の、また個別国別の、政治と経済の形態
があつて然るべきです。私たちは、銭金や収奪略奪のために生きてゐるわけではない。
さあらば、徒党に頼らず、徒党を組むことなく、是非一度、自前の脳味噌を使つてデカルト
をお読み下さい。どの作品を読んでも面白い。哲学は人類最高の娯楽です。
あつ、忘れるところでした、最後にもう一つ。デカルトの座右の銘です。生と死の二つにそ
れぞれ配した二つの銘ですが、これはこのまま私の座右の銘となつてをります。しかし、安
部公房にこそふさはしい箴言、いや、陸沈者たるあなたにこそ最もふさはしいのかも知れな
い。
よく隠れた者こそ、よく生きた者である。[註2]
万人に識られつつ唯己れ自身には識られざるものは、死に臨んで死を怖れる。[註3]
[註2]オヴィディウス:bene vixit, bene qui latuit
[註3]セネカの悲劇『ティーエステス』:illi mors gravis incubat, qui notus nimis omnibus ignotus
moritur sibi.

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連載物・単発物次回以降予定一覧
(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命






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